2021年7月8日公開
奈良の音羽の観音寺と言えば、NHKのテレビ番組『やまと尼寺 精進日記』で有名です。
山寺の尼僧さん3人が、四季の移ろいの中で、自然と共生した昔ながらの日本の生活をしておられます。
この音羽の観音寺は、日本人が日本人として初めて開いた日本の古い仏教、1115年開宗の融通念佛宗の末寺です。
私は唐院の浄徳寺というお寺に属しているのですが、唐院の浄徳寺も音羽の観音寺と同じ融通念佛宗の末寺です。
この宗派の本山は大阪市平野区の大念佛寺であり、この大念佛寺は、毎年5月1日から5月5日催される伝統行事、この世に極楽浄土の世界を表し、金色に輝く25の菩薩があの世からお迎えに来てくださる姿を表した「万部おねり」でも有名です。
この融通念仏宗には、無数の伝統行事があり、その大きな二つが先程の「万部おねり」と「御回在」です。
融通念佛宗は、本山大念佛寺と大阪・奈良を中心に357の末寺があります。
本山大念佛寺のご本尊は「十一尊天得如来」の描かれた掛軸であり、「御回在」は本山からこのご本尊「十一尊天得如来」が、僧侶たちとお供の人々とで、毎年全ての末寺に毎年同じ順でそれぞれ同じ日に来てくださる行事です。
「御回在」は、知る限り江戸時代から行われており、私自身はその起源自体もっと古いのではないかと考えております。
「万部おねり」も江戸時代からと考えられていますが、その起源自体は遅くとも1542年迄遡ります。
1618年から続く伝統行事
そして、「御回在」は、浄徳寺では毎年10月29日に行われます。
本山のご本尊と供に、僧侶たちとお供の人々とで朝から夕方にかけて、唐院内の全ての檀家さんの家を回り、あの世にいった先祖のご冥福を祈り、今を生きる人々の幸せや身体堅固、無病息災を祈って回ります。
本山のご本尊は「十一尊天得如来」であり、阿弥陀さんと観音・勢至菩薩その他8つの奏楽菩薩の描かれた金色の美しく優しい掛軸であります。
ひときわ大きい中程の阿弥陀さんの金色の光は、放射状に輝きを放ち、仏を念じる衆生を救い取るけれども決して捨てはしない、ということを意味しています。
檀家さんの中にはこの時期になると、代々「如来さんござる」「如来さんござる」と言って、僧侶たちのお迎えができるよう、随分前から家を用意して待っておられる方もいます。その日の夕方頃になると、本山のご本尊と僧侶たちとお供の人たちは浄徳寺の本堂に戻り、本山のご本尊と浄徳寺のご本尊とその他の仏さんたちと黄や紫色の美しい衣を着た僧侶たちの法要と説法が行われます。
秋の夕暮れと古い金色の仏さんたち、灯明の火の醸し出す雰囲気は、この世の浄土世界を表しています。
この「御回在」は、本山と末寺357カ寺にて行われ、本山のご本尊と僧侶たちとお供の人たちは、毎年全ての末寺を回っています。
一体いつから。少なくとも江戸時代、1618年からです。
大阪夏の陣、冬の陣で損傷を蒙った本山大念佛寺に、徳川家康公が田園三百石の寄進を申し出た際に、道和上人がこれに代わって回在念佛の弘通の許可を得た時からです。
違う形ではもっと前からだったかも知れません。
先人が生み出した相互扶助システム
毎年本山のご本尊が全ての末寺を回る美しい御回在。400年の歴史を持つこの悠久の伝統行事。
あの世にいった先祖のご冥福を祈り、今を生きる人々の幸せや身体堅固、無病息災を願うこの如来さん。
しかし、私は、個人的推論だが、これは文献その他の資料で証明できないですので、話半分以下、10分の1以下に聞いて欲しいのですが、私はこの行事には別の意味があったと思う。
本山と大阪、奈良に点在する357の末寺。
別の見方をすれば、本山から放射状に広がる357の末寺。
私はこれらには別の意味があったと思う。
それは、おそらく、村と村、地域と地域、共同体と共同体の、昔の相互扶助システムなのだ。
そして、「御回在」とは、その基礎訓練を兼ねていたものではなかったろうか。
日本の歴史は古く、末寺がある地域もまた歴史が古い。
逆に言えば、本山も末寺も、戦後に初めて拓かれたニュータウンの中にはない。
末寺の本尊も鎌倉時代のものが多く、平安時代のものもある。
ということは、様々に変還しながら戦国時代や関ヶ原、大阪冬の陣、夏の陣、明治維新や廃藩置県、戦争と終戦の時代を越えて来たものが多いということです。
日本は平和な国なので、大半は平和に暮らしたのだろうと思うが、今はそういうイメージになっているが、幾度か、いわばその時の行政システムがクラッシュするような時代を越えて来たということです。
これ以降も、南海トラフ地震や台風や豪雨等で、一時的に行政機関が麻痺状態になることがないとは言い切れません。
日本は平和な国であり、まだ世界三位の経済大国であり、国土は更に強靭化されようとしている世界有数の安全な国でもあります。
しかし、万一がないとは言い切れない。
そんな時どうしたらいいのか。過去どうして来たのか。
縦と横で繋がっている寺
仮に昔、と言っても明治時代や江戸時代以前、災害その他で融通念仏宗の末寺のある一つの地域が被災して、当時の行政機関が麻痺し、誰も助けに来れない混乱状態になった場合、この相互扶助システムが起動したのかも知れない。
何度も言いますが、これは私の勝手な私見です。
仮に357の末寺の内、一つの末寺のある地域が被災して孤立した場合、残りの356カ寺の内、可能なところから米や食料や力仕事のできる人々を一旦本山に集め、本山からその末寺に助けを出す。
今の時代なら移動は車が主流だが、車のなかった江戸時代さえ、本山からその末寺迄、一昼夜で行けたと思われる。行き方は分かるのか。どうやって行くのか。
行き方は分かったし、行けただろうと思う。一昼夜で行けただろうと思う。
それは、一年に一回「御回在」で、本山から全ての末寺と檀家さんを回ってきたからです。
本山のご本尊と供に回って来たからです。
いつから?少なくとも1618年から今迄400年間。お伊勢参りと同じで、「御回在」も本山のご本尊と共にであれば、大阪の役で損傷を被った本山大念仏寺に、代わりに回在念佛の弘通の許可を与えられ、江戸時代でさえ関所を越えていた。
今でも行けるのか。今でも毎年「御回在」で行って、全ての末寺と檀家さんを回っています。
物資や人は集まるのか。それは、万が一自分のいる地域が被災しても、本山のご本尊が毎年通る道を通って、誰かが助けに来てくれると信じれる限り、遠い末寺のある一つの地域が被災しても、お互い様だし、明日は我が身かも知れないなら、人々は何らかの助けをしようと普通は思うと思う。
人々がこの感覚を忘れてない限り、本山から必ず助けに来れたと思う。
それは本山と末寺で毎日毎日何百年も僧侶がとなえてきたお経の中で「念仏衆生摂取不捨」(仏を念じる衆生を救い取るけれども決して捨てはしない)と言っていたし、今現在も言っているからです。
何度も言いますが、これは私見であり、私の勝手な仮説又は空想です。
ではもし、本山が被災して機能不全になったり、本山が表立って動けない場合はどうするつもりだったのか?
その時は、本山の機能を小型化した、私の知る限り、最大25カ寺、全体で10以上の「講」というシステムが動き出し、助けに行こうと思えば行けたし、もしかしたら、万が一の際には、今でも助けよう、助けに行こうと思えば行けるのかも知れない。
「田舎のお寺は田舎に一つポツンとある。」というのは人々の思い込みであろう。
縦には本山とつながっているし、横には数カ寺から数十カ寺どうしでつながっている。おそらく江戸時代またはそれ以前から。
繋がっている証拠などは特にないし、学者でもほんの一部しか採取し得ない。
そもそも極限で信頼できる人間関係というものは、文書にする必要など、どの時代もなかったからである。
この繋がりのシステムは、知る限りこの70年間は動いていない。
なくなったのでなくて、眠っているのだと思われる。
いや、なくなったのかも知れない。
「講」が動く時
開宗900年、「本山のご本尊は一つの掛軸である。」というのは人々の思い込みであろう。
もともとは一つであるが、遅くとも江戸時代の昔から本山のご本尊は同じものが5つあり、それは、昔、何かに際して、万が一に際して、心を決めた寺檀が同時に複数の関所を越えるためのものであったのではなかろうか。
何度も言いますが、これは伝え聞いたことをもとにした私の空想なのかもしれない。
だから、これ以降もこの話は半分以下にして、聞いて欲しい。
そして、最後に「講」が動いたと思われるのは最後にその当時の行政機関がクラッシュした時だろう。
何十年か前、私は聞いた。かつて大阪大空襲があった中を、残っている河内あたりの末寺の檀家さんか大勢の男たちが、市内の被災地へ、被害地へ、「大阪空襲の時、行った。」ということを。
空襲の間隙を縫って人々は助けに行ったのだ。
人々が自分の安全だけを考えていたら、今なら誰も空襲の中にはなかなか行けない。
当時まだ助け合い支え合いの共同体意識があったから行けたのだろう。
しかし、その時動いたものが本当に「講」だったのかはもう分からない。
伝え聞いたことをもとにした、私の勝手な空想なのかもしれない。
このようなことは全く記録に残らない。証拠なんてない。
だが、こういうことは寺の法要や各家の法事で何かの折に伝承される。ほぼ無意識に、理屈ではなく、感覚を伴って。
先人達が生み出した文化・伝統の意味を考える
私は、自分の生まれ育った土地の明治か大正生まれの先人達が、何十年も前に、小さな私に向って言った言葉の断片を何とか思い出して、それらをつなぎ合わせて、今これを書いている。
私は、私の書いたことの全てが正確で正しいなどとは思っていない。
正確で正しい記憶の伝承などそう簡単にはない。また、昔に帰りたいなどとも思ってもいない。
今ではそんなことは不可能だ。
しかし、伝承であるにせよ、私の空想であるにせよ、我々とは何か、何であったのかを一旦思う限りできる限り描き出し、先人達が信じてきたことを一旦受け継いで、今後の時代に使わせて頂けるものは使わせて頂いて、何とかやっていこうと考えている。何とか、日本人として、次の代に豊かな時代を渡すために。
そして、豊かな時代とは、決して放逸に満たされた時代のことではなく、ましてや巨万の富など必要もなく、明日も明後日も、10年後も仕事があり、頑張ればそれなりに報われ、家族、友人、知人、地縁、隣近所があり、会社や働く場所での関りがあり、祭りや法事があり、行政も役所も国民のことを第一に考えてくれ、明日も明後日も、10年後も30年後も、全てがこのまま続いていくと信じれる時代、ただそれだけのことだったのである。
そして、少し前までは、私の目にはそのような時代はあった。
きちんと勉強をすればそれなりに、頑張ればそれなりに、特殊な才能や個性がなくても、多くの人々が報われた。