第六話 後半 あるおばあさんたちのこと

2021年7月5日公開

あるおばあさんたちのこと

1月の末頃、月参りであるおばあさんの家に寄った。
おばあさんの家の仏間は、寒い北側の玄関から入って、古い木造の家特有の陰影のある部屋を通り抜けた一番奥にあった。
仏壇はその部屋の西の壁にあり、金色のあみださんの下に位牌が祀ってあり、もう遠い昔に、夫も父も母もあの世に行ったことを暗示していた。

呼んだがしばらく誰も出て来なかったので、私はいつも通りお勤めを始め、心経をとなえ、月命日の人の戒名を読み上げ、鉦をたたいた。その鉄製の音は高く響き、その家に何か邪な気配が入り込んで来ることを払っていた。
りんの音は体の力を抜かせ、音が遠くに消えゆき静寂に戻る時に、その家の様々な日々のこだわりが消えてゆくように感じられた。
私はお経の途中で、おばあさんがゆっくりと音もなく入って来て、私の後ろの座布団に座る気配を感じていたが、お勤めが終って後ろを向いた時には、おばあさんはまだ仏壇に向かって手を合わせていた。

人柄を観る

このおばあさんは九十前であったが、中々気の強いおばあさんで、私が「終わりました。」というと「知ってまんがな。」と言った。
それからおばあさんは同じ村に住む、同じ歳頃の親戚のおばあさんの近況を私に聞いて来た。
「佐藤さんのおばあさん、最近どうしたはんの。」
「車に乗せてもうて、家の前を通った時、門の鍵落としたってん。」
「誰もいいひんのか。」
「もうお互いに耳も遠いから、電話もできひんし、足も悪いのでたずねてもいかれへん。家の前車で通るだけや。」
と言った。

このおばあさんたちは親戚どうしで、お互いに年を取って、行き来ができないでいた。
私は、寺の仕事をしていると共に、司法書士の仕事をしている関係上、一瞬個人情報保護のことが頭に浮かび、おばあさんに、「よその家の事は、秘密を守る義務があるので、言えへん。」と言った。
この時のおばあさんの怒りはまあ激しく、少し眉をつりあげた上で、「そんなこと分かってまんがな。そんなこと言うてたら、何も話ができやしません。あほなこと言うてたらあきませんがな。まずは人を見てや。人を見て決めんねがな。」と言った。
私は驚いたと共に「はっ」とした。そうだ、そうなのだ。
まずは人柄を見、その人間性を感じ取って、その人が信用することができるかどうか、判断すれば良いのだ。
そして、本当はその人の人柄を観るということが、何事に於いても一番大切なことなのだ。
おばあさんの言っていることは、一理も二理もあるのだ。
おばあさんは私のことを信用して尋ねているのに、私が法律を考慮して、杓子定規に答えられない、と言ったことに腹を立てていたのだ。
おばあさんが私を人として信用すると言っているのに、私がおばあさんを信用できるかどうか分からない、という態度を取った一点において、怒っているのだ。
いくら様々な法律ができても、いくら詳細な契約書に押印しても、信用できない人間は信用できないのだ。

相互に利他的な人間同士の交わり

少し前迄、契約があまり言われなかった頃、きちんと契約を結びさえすれば安心だと考えられていた。
しかし、契約を結んでも安心できない企業や人間は安心できないし、むしろ契約を利用して、解除を拒んだり、違約金を請求したりし、積極的に自分の利益を得ようとする者と、あちこちで交わらざるを得なくなったのだ。
本来お互いがお互いを思い、相互に利他的な人間同士の交わりは、むしろ契約や法律など必要ないのだ。
契約を締結し、法律を適用しなければならない人間同士の関係というものは、相手が裏切ることがあることを前提としている点で、むしろ程度の低い人間たちの関係なのだ。
だから、おばあさんが私のことを信用するということを暗に示しているのに、私がおばあさんのことを信用できるかどうか分からないということを暗に示したことは、おばあさんに対しては、失礼なことをしたのだ。

私は、おばあさんに詫び、親戚のおばあさんの近況を教えてやった。
「佐藤さんのおばあさんは、足腰が弱くて、もう寝たきりに近いねん。記憶も、もう薄れてきたかも知れへんねん。病院にも入っていることがあるねん。春になったらまた元気にならはったらいいのになあ。」
おばあさんは二度程縦に頷き、それからは黙っていた。
このおばあさんは、車に乗せてもらってその家の前を通った時に、平日の昼間に門が閉まっていたという一事をもって、その親戚の家の異変を全て悟っていたのだ。

帰りに私が北に面した庭に目をやると、暗くて寒い部屋のガラス窓から、春の前の植木たちと、椿の赤い花が、白い光に静かに輝いていた。