第二話 前半 この世の果ての(野)

2021年7月5日公開

この世の果ての(野)

※登場人物はフィクションです。
※下記に登場する「あばあさん」は実在の人物ではありません。

何年か前に、寺に特殊な依頼があって、それは東京からおばあさんを奈良の古い地域に引き取りたいので、連れ帰って欲しいというものでした。
そのおばあさんは一人でしたけれど、若い頃に南の半島の国から東京に出、働いて生活をして来ました。若い頃をどのように過ごしたのかは知りません。
晩年は一人暮らしで、大東京の真中で、ひっそり暮らしていました。
隣近所との付き合いはなく、頼るべき親族もなく、一人で生活をしていました。
85才を過ぎ、体も弱り、物忘れもするようになりました。
私が会った時には既に認知症の兆候が出始めていました。

おばあさんは部屋で転び、骨折し、病院に運ばれたのですが、骨折が治っても歩く事は容易ではなく、認知症の兆候があったので、部屋に戻ったとしても一人きりでの生活はできませんでした。
病院側も骨折が完治しているのだから、次の患者のためにベッドを空けなければならないのだから、おばあさんに早く病院を出てほしい、しかし、認知症故に病院から帰すに帰せない、そういう状態でした。
病院側も手を尽し、親戚を探し出し、やっとのことで見付けた遠い親戚が奈良の小さな村に住むおばあさんの姪でした。

東京から縁もゆかりも無い奈良へ

故郷の親族には引き取り手がなく、病院側がやっとのことで見付けたのが、おばあさんにとって、縁もゆかりもなかった奈良の古い地域に住む姪だったのです。
私の仕事自体は、おばあさんを東京から奈良の古い地域に連れてくるに際し、必要な手続きで助ける事でした。
私は病院の支払の手続きを助け、部屋の大家さんと賃貸借契約解除の話をし、引越業者を手配を助け、部屋を片付ける業者を手配を助けました。
病院と連絡を取り、おばあさんを新幹線に乗せる事ができるか、それとも高速を長時間使ってでも介護タクシーで連れて帰って来るべきか話をしました。
そして介護タクシーを手配を助け、ヘルパーさんを手配を助け、奈良側の受け入れ体制を調整を助けました。
私自身はおばあさんに連れそって、一緒に東京から来た訳ではありませんが、転居届の提出及び住民票の移転、健康保険の手続きでも姪を助けました。
そういう仕事だったのですが、私はこの件から一つの事を学びました。

都会での孤独

おばあさんがどのような経過をたどり、このような状態に行き着いたのか、私には分かりません。
しかし、どのような理由があろうとも、普通の人が一人では、家があっても、預貯金があっても、年金があっても、それが大都会の真中であっても、全ての社会保証制度がそろったとしても、一人では決して生きてはいけないということでした。
大都市の一部では介護施設もパンク状態と聞きます。どれくらいの状態か正確には知りません。一部では入居先も見付けにくいし、認知症になっては本人自ら入居の手続きもできないのです。
隣近所の助けなどない、誰も助けないし、誰も話しさえしない。
おばあさんが経験したものは、人口1300万人以上を擁する世界の大都会の真中での完全な孤独だったのだと思います。

集合体から個人への変化

真に大切なものは、家族のつながり、隣近所とのつながり、人々とのつながり、そして故郷なのだと思います。
私が厳然と突き付けられたものは、人は自らがどのように優れた能力を持ったとしても、自らがどれ程に資産を蓄えたとしても、家族や隣近所がなければ、最後は人と人の間では生きられないという当たり前の事実だったのだと思います。
それは何処に移住しても、大都市に移住しても、地方都市に移住しても、首都圏へ移住しても同じ事です。

人間は人と人との間でしか生きてはいけない
戦後、憲法には

国民の自由(12条)
個人としての尊重(13条)
思想及び良心の自由(19条)

が定められました。
そこから何十年も経って、それが憲法制定当時の背景の中でどのような意味をもっていたかが忘れられ、昨今は何事も個人の自由、自分らしさ、自己決定・自己責任が言われ、それらを制限するかのような言動は一種のタブーになりました。
戦後から現在に向って、全ての言動は一つの方向性を持っていたように思います。
それは個人の自由を核に、家族を解体し、地緑共同体を解体し、社会の連帯感を解体し、伝統文化を解体し、国民をバラバラの個人の砂粒の単位にするような方向性だったと思います。

他人との関わりを忌避する社会

三世代同居から核家族が主流となり、今は単身世帯が主流となるように思います。
消費は各個人の自由であり、個人がだれに相談もなく好きな物を買い、消費者ローンも法律上は家族に内緒で借りることができ、行き詰まった際の借金整理や自己破産も法律上は家族に内緒でできるようになりました。
他人と関わることは、会社の飲み会であっても、地域の自治会の会合であっても、どのような名目であっても、自分の自由な時間の行使を阻害する自己実現にとっては邪魔なものであると考える人々も増えました。
隣近所とも挨拶をせず、他人に見られることはプライバシーの侵害だという理由で、地方の都市部でも休日の昼間から道路に面した部屋のカーテン、雨戸、シャッターが下ろされるようになりました。
雇用は非正規が多く助け合うことも少なくなりました。
厳しい労働条件で働いても、働く人々が、共に手を取り合うこともあまりしません。
我々は戦後70年をかけて、他人との関わりを忌避する一粒一粒の砂粒となったのです。
勿論、国民全員がそうだとは言いません。
しかし、家族や隣近所や地縁のない人々の割合が急速に増えたような気がします。
戦後70年をかけて戦後の世代が生み出した社会の行き着く果てが、あの東京のおばあさんだったような気がします。
行き着く先のそれは、世界の大都会の中での晩年の孤独なのだと思います。

ゆるやかな共同体をもう一度

しかし、だったら造り直せばいい。
まだ奈良の片隅にも、人々の繋がりこそが今後は大切なのだ、お寺や神社を中心に、利他、互譲、共栄、助け合い、支え合いの共同体が大切なのだという人は大勢います。勿論それ以外の集まりも大切です。
次の時代を幸せに、豊かに生き抜いて行くために真に必要なのは、家族や地緑その他の利他的な共同体の構成員として生きることなのだと思います。
そしてその役目をおそらく行政だけでは担うことはできないのだと思います。
行き過ぎた政教分離であり、宗教的要素がなく、宗教的要素がないということは場合によっては道徳性が担保されず、逆に厳格なルールや基準があり、些末なルールや基準にこだわって、できるできないの話に終始する場合があるからです。
条件を満たさない人のためには動いてくれません。

今後世の中がどのようになるか、予想もつきません。

今後の時代に、利他、互譲、共栄、助け合い、支え合いのゆるやかな共同体、誰も落伍者を出さずに安心してつながれるゆるやかな共同体をもう一度造り出すことができるのは、きっと日本の片隅のお寺や神社なのだと思います。