第五話 前半 バランス感覚

2021年7月6日公開

バランス感覚

さて、皆さん、前回は「小さな村の中心」という題目で話をさせて頂きました。
旧村の寺、浄徳寺の本堂の中心はずらしてあり、それは、自らが中心であると主張してはいけない、そのようなことを繰り返すとやがて争いになる、だから人は皆、少しずつお互いに譲り合おう、お寺はそのことを示している、その様な話をさせて頂きました。

さて、更に、唐院とお寺、神社についてもう少し話を進めたいと思います。

唐院のお寺、神社の歴史

実は、唐院には浄徳寺の他に西楽寺(仮名)という寺があり、そして比売久波神社があります。
もっと昔には、つまり明治以前には、もう少し寺があったとのことらしいが、今は寺2つに神社1つが残っています。
これらは全て、相当に古い歴史をもっていることは分かりますが、言い伝えより他に、文書による記録は殆ど残っていない。
しかし、我々の感性というものは江戸時代の昔より余り変わっていないのだと思う。
浄徳寺の本堂が築330年であり、この330年の間に、政治体制が徳川幕府から明治政府に代わり、終戦を経て現在の政府に至っている。
明治憲法や明治民法から、終戦を経て、現在の憲法や現在の民法に代わっている。
小さな村は小さな村で色々なものを取り入れて来たが、本当に変ったのは外の世界であって、我々の感性は本堂と供に、古い昔からあまり変っていないのではないかと思う。
それは、私他、互譲、共栄、助け合い、支え合いを善として考える共同体であり続けたということだ。

しかし、この共同体内部も、時代や時々の様々な要素によって、または内部の人間関係によって、ゆるやかに、又は時には対立的にいくつかのグループに自然に分かれることもある。
学校でも仕事場でも、中心にいるグループとそれ以外のグループ、賛成派と反対派、人間が集団を形成する以上、様々な要素によって、二派かそれ以上に分かれることは自然ではないかと思う。
それは、人間とはそのようなものであると思われ、私はそれで良いと思う。

分断を止めるための共同体

また、唐院という旧村は丁度、中世には、その位置から北東の武家と南西の武家はさまれた位置にあり、近世には郡山城の影響下にあったと思われ、状況によっては戦乱に巻き込まれる可能性があり、村内北東側と南西側に分断されたり、場合によっては主戦場となってしまう恐れがあったと思われる。
正確なことは何も言えませんが、浄徳寺は様々な残っている要素から北東側の影響があったと思われ、西教寺は宗派的には、南西側の道場であったと思われる。
平素、いつの時代も一つの共同体があり、その中で人々が二つや三つのグループに分かれていても、それは好き好きで、それはそれで良い。
しかし、村外からの武力的干渉に巻き込まれた場合、村が二分して戦ってしまえば、村内に於ける犠牲が出てしまう可能性があったのだろう思う。
そして、危急時に共同体が分断しないように、村にある一つの神社が作用したのではないかと思う。
浄徳寺と西楽寺(仮名)、それぞれ普段二寺とその檀家に分かれていても良いのだが、いざ外部の争いに巻き込まれる可能性が出たのなら、村が一つの神社に全員が関わる一つの共同体として、協力することができ、危機的な分裂と損害を回避することができたと私は思う。
そして、浄徳寺は浄徳寺で、その中心を譲り、争いを避けるという心性を表して来たのだと思う。
だから、一つの村の中に二つ又は三つの寺と一つの神社という形態があるのが、皆が皆、決定的な損失を出さずに生き抜いていくための昔の人々の絶妙な知恵だったのだと思う。

私は明治維新のことをよく知らない。何が本当かも知らない。
しかし、明治維新前後の混乱期に於いて、国が二分されて、双方の勢力の後ろに外国が干渉して内戦状態になる可能性があった時に、様々な事情が絡んで、分断によって国内が疲弊するよりも、国民を一つに統合するものを作ろうとした国家神道の発想と、小さな村の神社一つに寺二つという形態と、実は似ているのだと私は思っている。

今でも、国家が分断され、双方に複雑に外国が干渉し、内戦状態が続いている国々がある。
日本は、万が一、国を二分するような事態が生じたとしても、そうにはならないのは、現憲法による日本国民統合の象徴である天皇陛下がおられるからなのだと思う。
この構造は、今も昔も、あまり変わっていないのだろうと思う。
勿論、あまりに強制的な中央からの押し付けは、末端の様々な所で、齟齬や違和感を生むのは、これも、今も昔も、あまり変わらないのだろと思う。
ただ、これに関しては、私はこう考えるし、こう感じる類の話でありますから、話半分以下で考えて頂きたいと思います。

あえて答えられない状態を作りバランスを図る

また、縁故のお寺で、中世において寺内町を形成していたお寺がある。
その本堂内には、阿弥陀さんを真ん中にして、右に天牌、左に尊牌が置かれている。
この牌とは、「位牌」の「牌」である。
天牌と尊牌は、位牌を縦に長く、大きくした形をしており、「天牌」には、「今上天皇聖寿無久」と書かれており、「尊牌」には、「征夷大将軍武運長久」と書かれている。
天牌も尊牌も、大抵江戸時代のもので、今も同じように祀られている。
つまり、双方を祀っている訳で、時代の中で、どちらか一方を選択した形跡はない。
いわば、両方を祀っていた訳で、私は、これは、当時の寺と檀家さんの、絶妙なバランス感覚を示していると考える。
いわば、両方を崇め、両方に付かず、その考え方が、共同体の安全に資して来たのだと思う。
そうすると、右と左のどっちが上か、という議論になると思うが、右と左どっちが上かという点に於いては、僧侶達は現在も混乱している。
阿弥陀さんに向って、右が上だという人もいるし、阿弥陀さんから見たら左側が右側になるので、左が上だ、という人もいる。
しかし、この混乱は、実は私は、混乱している状態の方が正しいのだと思う。
当時、阿弥陀さんに向って、右が上だと決めてしまえば、左が下になってしまうので、双方を祀りながら、どちらが上かを答えられない状態をあえて作ったのではなかろうかと思う。
しかし、右に天牌、左に尊牌を置きつつも、真ん中は阿弥陀さんを安置してこられた点では、当時の人々の世界観を映しているのだと思う。
これは、正確な史実とか、そういう類のものではなく、私の考え方や、感じ方でありますが。

双方が話し合い知恵を出す

さて、今日、私が申し上げたいのは、今日私が話したことの史実ではありません。
史実の正確さや本当に事実かどうかなど、現在では、確かめようもありません。
私が申し上げたいのは、寺とこれを内包する小さな村の文化のバランス感覚についてです。
初めの方で述べさせて頂いた通り、我々の文化はおおよそ、断絶せずにずっと続いて来ています。
そして、その文化の面影は、今も唐院に残っています。そして、その唐院の方々のバランス感覚ですが、お寺とお宮さん、尊牌と天牌を二者択一してこなかったように、今尚、二者択一でものを考えない人は、かなり多いと感じています。

要は二者択一でなく双方であり、双方を生かそうと考える人が多い様に思います。
今、もし意見の対立があれば、相互に相手の欠点を批判し合うような議論の仕方が増えたと思います。
しかし、小さな村で意見の対立があれば、自分の意見を言い、相手の反対意見を聞き、双方意見の違いを認めた上で、そこから双方を損なうことがないように、知恵を出そう、という考え方をしています。
双方に平等利益になるように、対立点を越える知恵を出そうという考え方です。

それは古い考え方であるように思っていましたが、今の時代に言う、winwinと同じ考え方です。
逆に双方の意見が対立し、双方に不利益が生じる恐れがある際には、双方の不利益を最も小さくするように知恵を出す場合もあります。
これは、賛成派と反対派が対立した場合に、決を取って、仮に賛成派が過半数を占めたのであれば、賛成派の意見が通り、そのまま実行に移し、過半数に満たなかった反対派の利害がそのまま無視されるという行き方ではありません。
要は双方を立てて、その上で知恵を出すという決め方の源泉は、お寺とお宮さん、天牌と尊牌、これらの併存という文化に、私はあるように思う。
今、市民生活の中で、激しい意見対立があって、双方引かずに、同じ主張を繰り返して決裂するということはよくあると思う。
或いは、多数決を取ってしまうこともよくあると思う。
それよりも、そこから知恵を出そう。
古い地域では、根回しして、全員賛成の議案しか、議題に登らないという文化もあるが、変化、決断の速度を欠いても、それはそれで有りなのだと、私は思う。