2021年7月7日公開
今、時代は進み、我々の子供の頃と違って、子供の日常生活の中での遊びも大きく変わったように思います。
ゲームや野球、サッカーなどのスポーツ、習い事を適度にすることは良い事だと思います。
しかし、今の子供の生活、特に新しい都市的な場所での生活について思うのは、禁止事項が多く、してはいけない事が目立ち、ルールの管理の下に置かれています。
我々の子供時代の旧村での生活と比べ、今の子供たちは自由さがないように思います。自由さがないということは、自発性を発揮する場が少ないことだと思います。
自然と触れようとしても、釣り禁止、動植物の採取禁止、立ち入り禁止、自転車禁止、禁止、禁止で息が詰まりそうです。
だから、我々の子供の頃の、子供の一年の過ごし方を遠い記憶を辿って、一度書き留めておきたいと思います。私の子供の頃、幼少期、1980年前後、我々子供は、唐院でどんな遊びをしていたのか、どんな一年を過ごしていたのか。
四月 〜 春の草花と昆虫
春は寺の山門にかかる大きな桜が満開で、春風に音もなく、花が舞っていた。
この頃から、田畑には一面蓮華草が咲き、青いおおいぬのふぐり、しろつめ草、紫の花をつけるからすのえんどう、薄紫のしゃが(野生の百合)が咲いていた。
だいたいどの子供も、一度や二度は田んぼで蓮華草を摘んで編み、友達のお姉ちゃんに花の輪を作ってもらった。
からすのえんどうは実を取って、白いすじを指で除いて、豆笛を作って、ピーピー吹いて、子供同士鳴らし合いっこをした。
しろつめ草のつるを、子供二人で引っ掛けあって、引っ張り相撲をした。
引っ張りすぎると、後ろへひっくり返った。
黄色い菜の花が咲き乱れ、紋白蝶と紋黄蝶がたくさん舞っていたので、子供たちは虫網で捕まえて、虫かごの中に入れた。
蝶を手で触ると、手の指に白い粉がついて、指先が白くなった。
だいたい夕方頃まで蝶はかごの中にいたのであるが、夕方になると、どこの家でも祖母から「逃がしてあげや。」と言われた。
春の日は、お日様と野の地面から登ってくる草花と土の暖かい匂いに満ちていた。
五月~ いちご
五月に入ると、木樹の青葉が鮮やかに見え、五月人形が各家の奥の床の間に飾られた。
男の子供たちは五月人形と一緒に飾られる刀が好きで、大体家の者の目を盗んで、刀を抜いて振り回して、小さな弟たちに見せつけた。
この頃は、子供のいる家は、どこからともなく柏餅をもらい、黒あんのつまったこの白い菓子は、子供の大好物であった。
年によっては、もらった柏餅が仏壇の前にたくさん積まれており、気が向いたらチーンと鳴らして食べた。
仏間はどこの家も薄暗く、黒味を帯びた柱と古い畳はひんやりしていた。家の中から見る前栽は明るく、新緑は鮮やかだった。
大体小学校に入るか低学年の頃迄は、苗が植えられた田んぼに行って網でカブトエビをすくい、濁った水をすくった小さなバケツに入れた。
水は生暖かく、カブトエビを指でつかんで手のひらに乗せて、裏を見ると赤い部分に驚いて、その後子供たちは、この虫を採るのをやめるようになる。
形は図鑑に載っているカブトガニと同じように見えた。
カブトエビが終る頃、オタマジャクシが田んぼに泳ぐようになり、小さい子供は、網ですくってバケツに入れた。
足の生えたオタマジャクシが出て来るようになると、小さな子供たちはその遊びにも飽きて、田んぼ遊びから離れた。
五月初旬に山門の桜の木は青葉が繁り、小さなさくらんぼうが実を付ける。落ちているものを口に入れると、とても食べられたものではない。
五月は、あちこちからいちごをもらった。
冷蔵庫で冷やしてから食べるか、そのまま食べるか、砂糖をかけて食べた。
小さい子供はガラスのキリコの器にいちごを入れ、牛乳と砂糖をかけてつぶしてもらって食べていた。
五月も後半になると、「裏の竹藪から竹の子を取って来て。」と言われ、何本かを取りに行った。
庭に生えている山椒の小さい木から「山椒の葉を取って来て。」と言われ、この季節には、家で木の実和えを作った。
山椒の葉を手のひらでパンパンとたたいてから、竹の子の上に乗せるが、山椒の何とも言えない風味が広がった。
白みそ味のこの季節の料理は、子供にはあまり人気がなかった。
里道にはハコベが自生しており、インコを飼っている家の子供はハコベをインコにやっていた。
六月 ~ 雨合羽とかたつむり
六月の梅雨時になると、子供は雨合羽を着て、長靴を履いて、家々の塀にいるかたつむりを捕まえて、虫かごに入れた。
空気の暖かさと雨の冷たさが交じる頃で、かたつむりの目をそっと触っては引っ込めさせ、また伸び出てきた目を触っては引っ込めさせて遊んでいた。
かたつむりの裏側を触ると、全部貝の中に引っ込んでしまって、しばらく出てこない。
小さな子供は、出て来るまでの時間が待てないので、諦めて次の遊びをした。
雨続きの日には、幼い女の子供は、おはじきで遊んでいたように思うが、小さな平べったいガラスの中に入った青色、朱色は子供の目にも、綺麗だと思われた。
七月 ~ 夏の緑の草花
小学校の中学年になると、七月は池で釣りをすることが多かった。
村の文房具店で買った餌を水で練って、小鮒を釣った。ごくたまに大きなへら鮒が釣れた。
この頃はまだ、池にはモロコや、ドンコと呼ばれていた小さなはぜのような魚がいた。
ドンコは薄茶色で目立たなかったが、中には黒々としたものもおり、その小さな胸びれは赤青黄の縦縞が入っていて、小さな宝石に見えた。
雷魚の中くらいのものや、茶色の田うなぎは、先にザリガニを取って、その尾を餌にして釣った。
ザリガニの尾の身は、毎年家族で連れて行ってもらう伊勢の旅館の伊勢えびのお造りのように、ぷるぷるふるえていた。
田うなぎは石の隙間に入っていて、力強く、釣り上げるまでに糸が切れてしまうことが多かった。
周囲に大人たちが集まってきて、「これ電気うなぎやで。やめとき。」と言ったが、電気が流れたことはない。
毎年7月下旬と8月には「地蔵さん」があり、村内のお地蔵さん三か所の前で、住職がお経を上げる。
チーンとなってお経が終ると、並んで待っていた子供たちにお菓子がたくさん入った袋が配られた。
その間に住職は、次のお地蔵さんの所に自転車で行くから、子供たちは走って、または自転車で、住職について走って行った。
そして、また並んでお経が終るのを待った。
地蔵さんの前掛けは赤い色をしていた。
最後は村の西の外れにあるお地蔵さんで、夏の日差しと草いきれの中で、子供たちは笑って並んでいた。
途中から列は広がっていき、最後のお菓子の袋を貰う時は、半分取り合いだった。
子供は常に20人から30人地蔵さんに来ていて、にぎやかだった。
お地蔵さんは皆、笑っているように見えて、優しそうだった。
一体、何のために、一体どれ位前から、毎年この様な風習が行われているかなど、子供は考えたことはない。
夏休みの朝のラジオ体操は、お宮さんの境内で行われることが多かったと思う。
朝六時半からで、肌寒い朝は、夜明け過ぎはまだ、夏の緑の草花が夜露に濡れていることもあった。
七月の後半は、朝から子供どうしでカブトムシとクワガタを見つけに回った。
子供たちは、カブトムシを単に「甲」と呼び、クワガタを「源氏」と呼んでいた。
くぬぎやこならの木の幹か根のところにおり、これらの木は、お宮さんには西、真ん中、南に一本ずつ計三本あった。
根元を掘り、木と木の隙間を見、上を見上げて木を蹴って源氏を落とした。だいたいコクワガタで、たまにヒラタやノコギリ、ミヤマが捕れた。
ある年の夏は、大きいヒラタの持ち方を誤って、左手の人差指の爪をはさまれ、爪がめりめり割れ、ヒラタの角が食い込んで、大けがをした。
お宮さんが終ると、池の古墳の中へ渡り、ここでも三本の木を見回った。
古墳の木にはスズメバチがいたので、子供たちは用が済むと走って古墳の斜面を下り降り、木の枝や笹で擦り傷を作りながら、古墳の入り口まで駆け抜けた。
その後、村の外れにある墓地の入口にあるお地蔵さんの後ろにある木を見て、全部で2、3匹捕まえた。夏休みの前半はだいたいこの巡回を繰り返し、お盆前には材木屋さんで貰った木の屑を入れた水槽に、かなりの数が入っていた。
八月 〜 縁日と従兄弟
八月十一日は「墓会」といって、この辺りの人々は皆、朝から晩まで墓参りに行った。
子供たちは、墓寺の境内の縁日の屋台で、駄菓子を買うか、金魚すくいをしていたが、私は、鯉釣りばかりしていた。
小さな緋鯉や紅白、三色が泳いでいたが、私は金かぶと銀かぶばかりねらった。釣って持って帰ったものは自分の水槽に入れた。
だから、夏の水槽は華やかだった。
墓会には毎年親戚が帰ってくるので、従弟や同じ年位の子供たちと何日か、朝から晩まで一緒に遊んだ。
私は、裸足にゴム草履を履いていたが、都会から帰ってくる子供は夏でも白い靴下と靴を履いていた。
この時期、様々な親戚が唐院へ帰ってきたが、お盆はご先祖さんも帰って来られるといって、一番奥の部屋の仏壇の前にある経机の上には、先祖の位牌が仏壇から出して並べられ、その前の机には陰膳が供えられ、その横で家紋の入った一対の提灯が、薄暗がりの仏間で、一日中灯けてあった。
先祖が帰り道を迷わぬように、線香を焚いて、三途の川に見立てられる池の水辺迄、迎えに行った。
八月下旬になると、蝉の音もニイニイゼミやアブラゼミやクマゼミからつくつくぼうしに代わり、夏の終りが近づいたのがわかった。
田の稲は、八月二十日を過ぎると穂を付けた。遊びの帰りに、道端から稲穂を抜き取り、米を毟り取り、穂の先に米一粒だけを残して、稲々の隙間から、米一粒ついた穂を差し込んで上下に細かく揺らして、土色の蛙を釣ったが、あまりに簡単に釣れるので、この遊びは子供にはすぐに飽きられた。
九月 ~ 鯉
九月に入ると用水路や飛鳥川で真鯉を釣った。釣れない年もあったが、ある年は用水路で真鯉が入れ食いになった。
鯉の鱗の模様は正確で美しく、子供が釣っている後ろから、大人たちが、「うあ、これ全部鯉やで。」と言って、バケツ一杯にになった真鯉を見て驚いていた。
十月 ~ 黄金色の田んぼ
十月に入るとお宮さんの秋祭りがあった。
唐院と同じ校区内にある旧村のお宮さんを回って、三日間縁日の屋台で鯉釣りと飴細工を買って楽しんだ。
田は秋の田で、黄金色になっていた。
十一月 ~ 焚き火と芋
十一月を過ぎると、稲刈りも終り、寒さが増した。
子供たちは、空地や畦道かで、木の葉を集めて何回か焚火をした。
乾いた古材があればマッチと新聞紙で火が付いた。
落ち葉が足りなければ、お宮さんから集めて来た。
子供数人でしたが、家にさつま芋があれば持って来て、焚火の中に入れた。誰も銀紙など持ってこなかったので、さつま芋をそのまま火に入れた。
拾った木の枝で芋をついて、枝が通るようなら、分けて食べた。表面は黒焦げになっていたが、中身は熱く、黄色く、甘かった。
子供たちは、火事にならないように、近くの建物から相当距離を取って焚火をしたが、通りかかりの大人から、「火、気いつけや。」と言われた。
十二月 ~ 花札のシール
十二月に入ると寒く、子供の遊びは、鬼ごっこや、自転車で警泥をするか、駄菓子屋数件をはしごすることに代わった。
だいたい子供は50円位しか持っていなかったので、どんどん焼きか、うまい棒か、猫のガムを買った。
ある年はガンダムのシールやベッタ、猫の免許証が流行っていた。シール状の紙に水をつけて、腕や足にあててはがすと、入れ墨みたいになるものも流行った年があった。花札のものが綺麗だったと思う。
冬の日のことなので、その夜風呂に入らなかった子供は、次の日の学校で、腕や太ももに、花札の絵が残ったままだった。
一月 ~ お宮さんとお年玉
正月は、隣のお宮さんに行って遊んだ。田んぼや旧校舎でたこ上げをしていた子供も多かった。
正月中はお寺の門は閉っていたが、一日から、親戚や近所の寺の住職が来られ、お年玉を貰った。年にもよったが、それなりの人の行き来があった。
お年玉をまあまあもらった年もあったが、使ったことがない。
二月 ~ 満開の花と雛人形
二月になると、寺の梅と、北側の塀の外にある桃の花が満開になった。
家の中の花瓶には、梅の花と水仙が生けられており、二月の家の中は、梅の花と水仙の強い香りがした。
雛人形が飾られ、七段目のお内裏様とお雛様の人形は、金屏風と雪洞の淡い光にあたって、優しそうに見えた。
赤い絨毯、五人囃子やその他の飾り、幼い妹は嬉しそうだった。
三月 ~ つくしと桜
三月三日の雛祭りには、母が米から甘酒を作ったが、あまり好きではなかった。
三月も中旬頃になると、近くの田、畔、堤につくしが生えた。近くの家の人達もつくしを取っていた。
つくしは、はかまをむき、玉子とじか、つくしごはんにしてもらった。はかまをむくのは子供にとっては大変な集中力が必要で、途中で投げ出した。
しかし、子供はつくしが好きであった。
三月下旬、春休みになると、山門の桜がちらほら咲き始め、春風の暖かさの中で、一年が巡った。
自然と子供の関わり
だいたい幼少期から11歳頃までの唐院の子供の一年とは、こういうものだったと思う。
今と比べ、我々の子供の時は、自然がもっと近くて優しかったと思う。
一年中その遊びの中で、子供は自然と関わっており、四季の移り変りも肌と香りで感じられた。
途中で児童公園が造られたが、その公園の遊具で遊ぶことは、子供にとって、最も退屈な遊びの一つであった。
子供の遊びが、自然と共生していたように、知らず知らずのうちに、唐院の文化に包まれていたと思う。
子供には子供の遊びと世界があり、自由であり、よっぽどの事がなければ、学校の先生や大人からの干渉はなかった。
唐院の家は殆どが木造の日本家屋で庭があり、四季の移ろいと自然との共生の中にあったと思う。
私は大体奥から2番目の八畳間で寝ていたが、部屋の四方を囲む障子、廊下のガラス戸、雨戸を閉めていても、外の音が聞こえた。
風の強い夜は、風と木々の葉の音がし、雨の降る夜は、雨の音がした。六月も下旬になれば、夜に田んぼの蛙が無数に鳴いていた。
冬は寺の北塀の外の冬枯れした叢の中を、犬かタヌキか何か動物が動いている音と気配が、布団の中で寝ていても、感じられた。寝ている場所からの距離やどの辺りを通っているかは、布団の中からでも分かった。
私が気づいていたのだから、動物の方も布団の中にいる私の気配に気づいていたかもしれない。
寝静まった後にふと山門の前を通る人の気配なども分かった。
つまり、自然とその共生の中で、「気」というものは、家の中も外も一続きだったように思う。
このような子供の生活というものは、不便であったけれども、今の言葉でいうストレスなどは感じたことがなかった。
そして、不便ということさえ、考えもしなかった。