2021年7月5日公開
さて、皆さん、奈良の旧村のお寺に行ったことがあると思いますが、私は昔から、旧村のお寺に一種の違和感を感じてきました。
特に誰かに質問をしたこともなかったのですが、一種の変てこな違和感を感じてきました。
唐院の浄徳寺も同じです。私は、子供の頃からその違和感を感じていました。
違和感の原因
奈良の農村において、道の突き当りにお寺があることが多いと思います。
違和感は、この道とお寺の位置関係についてです。
道の突き当りにお寺がある場合、この寺に向かう道の中心と、お寺の本堂の中心が一直線ではなくて、微妙にずれている。
道の中心の延長上に本堂の中心がないということです。ずれている。
山門の中心と本堂の中心が同じ直線状に一致していることは多いのですが、道の中心と本堂の中心がずれている。
浄徳寺は、東西に長く南北に短い菱形をした唐院という旧村の北点に南向きに座しています。
村の真中あたりから、北へ向かって北点に至る道の突き当りに浄徳寺があるのですが、道の中心の延長線上から浄徳寺の山門と本堂の中心は、西側に少しずれています。
私はずっと何でずれているのか、見当もつきませんでした。
これは、浄徳寺だけの話ではありません。それなりの割合で、奈良の旧村の道の突き当りにあるお寺の本堂の中心がずれています。
何年か前、あるお坊さんと話をしていて、私が、「旧村のお寺の中心ずれているよなあ。」と言ったところ、そのお坊さんは「ああ、そうや、真ん中は神さんが通らはんねん。」と答えました。
この時、私は、「はっ」としたとともに、長年の疑問の答えを聞きました。
寺の本堂の中心は、ずれているのではない。道の真ん中を神さんが通るかも知れないから、ずらしてあるのだ。ずれているのではなく、ずらしてあるのだ。
真ん中をより尊いものに譲る、お譲りするために。
争うのではなく補完し合う
浄徳寺は旧村の北点にあるのですが、浄徳寺の隣、隣接する北東地には比売久波神社があります。
本殿は春日若宮本殿の江戸時代の移建とされており、それ以前の神社のはじまりは分からない。
浄徳寺も本堂は築330年程なのですが、それ以前の開基は分からない。
この位置関係からかどうか分からないが、神社の方が古いと思われるが、確かなことは分からないが、いずれにせよ、浄徳寺の本堂は、おそらく神社に真ん中をお譲りしていると思われる。
私は、奈良の旧村のお寺の本堂の、この真ん中を譲っている建て方が、数百年に渡り、村の人の感性に、直接的にも、暗黙の内にも、影響を与えてきたと思う。
お寺はお寺の文化があるのだが、真ん中を通る尊いものがあれば、お譲りする。これは、争いを避けるためには非常に重要なことなのです。
お寺も人々も自分が正しいとして、自分が中心だとして、他の人たちにその真ん中を譲らないことがあれば、相互にそれぞれに、自分の正義、自分の道理を主張して、一向に譲らず、やがて争いに至って、最悪双方破滅的な道を進むことになるのだ。
だから、より尊いものが、通ってくるのなら、譲った方がいい。
先に尊いものがあるのなら、自らが控えた方が良い。檀家さんも、寺か神社かなどとは全く思っても考えてもおらず、お寺のことを親しみを込めてお寺さんといい、神社のことを親しみを込めてお宮さんといい、何百年もの間、双方に通って来た。
お寺もお宮さんも、相互に排他的でなく、二者択一でなく、多くの人々にとって両方であり、補完し合って、本当に長い間今まで来たのだと思う。
混ざり合う文化
私は、この真ん中を譲って、排他しないで、場合によっては習合して平気という心性は、これまで多くの日本人が持って来たと思う。
山本七平が指摘したように、日本人の多くは、子供が生まれたらお宮参りに行き、結婚式を教会式でし、お寺で葬式をしても平気なのだ。
お寺にしても、檀家さんにしても、我々には我々の文化があるけれども、より尊いものがあれば受け入れるという心性をずっと示して来たと思う。
だから、『となりのトトロ』のさつきとめいちゃんの家のように、日本家屋に洋風建築を増築しても、格好良いと思いこそすれ、変だとか、不統一だとか、誰も思わないだろう。
逆に、洋風建築を先に建てて、日本家屋を増築するということは、外国の文化では、誰も考えつかないのではないだろうかと思われる。
旧村に仏教文化は仏教文化として存在する。
しかし、その心性は、より尊いもの、より有用なもの、より人を助けるもの、より優れたものを受け入れたとして、違和感なく全く平気なのだ。
それが西洋文化であっても先端技術であっても、伝統文化と併存、融合してきたのだ。
明治維新以降、日本人は、急速に西洋の文物を取り入れ、科学技術を発達させ、現在に至っている。
西洋人が日本を見て、「伝統と革新」という矛盾する要素が同居していると言っていたのを読んだことがあるように思うが、それは、我々は我々の文化として存在するが、より尊いものには真ん中をお譲りします、より尊いものは受け入れて抵抗なく場合によっては習合するという心性を、我々の根底に持っていたからだと思う。
受け入れられない心
しかし、何でもかんでも譲って必ず習合するのではない。
浄徳寺の本堂の屋根には、時計回りに南西、北西、北東、南東の位置に鬼瓦が取り付けられてある。
いかめしい表情をしており、一隅に2つずつ、四隅で計8基の鬼瓦が取り付けられてある。
これは、邪なものが外から侵入して来ようものなら、お断りします、ということを意味している。
利他、互譲、共栄、助け合い、支え合いの心を持ったものなら、文化でも思想でも科学技術でも真ん中を譲って、受け入れて、場合によっては習合するが、この心を持っていないものは、ご遠慮願いますということを意味している。
つまり、仏法や人としての優しさを毀損するものはだめだと。
今から何百年も前、交通機関が発達していなかった頃は、人々の生活圏とは、歩いて行ける範囲を意味していたと思われる。
その頃、唐院という古い地域の人々にとって、自らの生活する世界のある意味での精神的中心とは、浄徳寺であったと思う。
その世界の中心は、ほんの少し西側にずれている。ずらしてある。
自らが中心を主張することなく、争いを避けることを暗示するために。
今、子供の教育で、自己主張する子供を育てる教育が行われているらしい。真偽は知らないが。
しかし、自分が自己の世界の中心であり、それに基いて自己主張をし、決して譲らないのであれば、譲らないもの同士の争いが、あらゆる所で増えるのではないか。
というより、譲らない者同士が同じ場に居くわすから、争いになるのだ。
今の時代主張すべき所は主張するのは当然であるが、譲ることで争いを避けることができるのであれば、相互にそのようにした方が良い。
その様にお寺とこれを内包する農村文化は、ずっと考えて来たのだと思う。
自分が正しいと思っても臨機応変に
私は、今から相当前の三仏四役の葬式のことを覚えている。
三仏が前に座り、私は四役の一人で後列の一番左側にいた。
後列四役は、右からいのう、ドラ、はち、はちで並んでいた。
私は、はちの役であったが、葬式中、読経が進んでいく中に、「二、四、四、三、三」「四、四、二、二、四、四、一」で、両手に持ったはちをすり合わせて、音を響かせる箇所がある。
このはちは、銅などの金属製の打楽器で、すり合わせて音を出すと同時に、ほんの少し、口では説明できない隙間を作って、ビーンと響かせて余韻を残すのであるが、良い音を出すには、楽器への強度の集中力が必要である。
逆に、リズムが「二、四、四、三、三」「四、四、二、二、四、四、一」と単調なため、楽器に集中しすぎると、今どの部分を鳴らしているのか、分からなくなって、迷子になることがある。
また、はちを鳴らす役僧は2人であるので、途中で「四」の最後を打っているのか、「三」の最初を打っているのか、双方分からなくなると、葬式中に大変な不協和音を奏でることになる。そして、その葬式中それは起きた。
はちのもう一人の役僧は、近くの寺の老祖であり、齢80くらいだと思うが、私と二人で「二、四、四、三、三」を鳴らしている途中で、老祖の鳴らすはちがずれ、私のはちとの間で、大変な不協和音を出した。老祖はどこかで鳴らす箇所を迷ってしまったのだ。
参列者には「ガシャン・ガシャン・ガシャン・ガシャン」に聞こえていたと思う。
葬式が終わって、寺院控室でこの話が出ると思ったが、誰も何も言わなかった。普段の通りにお坊さん達が話をしていただけだ。
その後寺院控室を引けて、導師であるご住職と二人になった時に、「老祖さん、はち、間違わはった。えらい音出したなあ。」と私は言った。
ご住職は、「老祖さんは年寄りやないか。向こうが間違っている事に気づいたら、向こうに合わせないかん。老祖さんは年寄やないか。双方が我を張っているから、そんなことになんねや。」と私はしかられた。
譜面通りに正しくはちを打った私が叱られたのだ。
相手が間違っていることに気付いたなら、葬式中は、気づいた方が間違っている方に合わせるべきなのだ。
その方が激しい不協和音を出すよりも、しめやかな音の和が保てて、はるかに良いのだ。
自分が正しいと思っても、臨機応変に、間違っている方に合わせることも、正しい場合があるのだ。
全員で譲り合う
今、日本の社会の中で、自分が正しいとして、一歩も譲らぬ者同士の争いが増えていると思う。
人間にはどうしても譲れないものがあっても良いと思う。
しかし、おおよそどうでも良いことに執着し、しつこく小さな正義を振り回すのであれば、それよりもお互いに譲り合おうではないか。
小さな正義を主張して、相手を不相応に傷つけたり、社会全体を蝕んでしまう位なら、主張せずに譲って黙っているのも一つの方法だとは思う。
問題となっている事柄が大した問題ではない場合には、全員が譲り合ったらいい。旧村の文化は、そのような問題には「ええは、ええは。」「しゃないな。」「お互い様やな。」として争いを避けてきた。
少し問題が大きくなっても、それでも、「ほっとけ。」「言わせておけ。」「やらせておけ。」とこれも争いを避けることを一番に考えて来た。
移住者の方へ
今、都市から農村への移住者の方が増えているらしいのですが、移住者の方に一つお願いがあります。
その移住者の方に農村に根付いて頂くためのお願いです。
それは、移住者の方が、自分たちは都会の文化を持っていて、田舎の文化を一つ下に見て、自分たちの方が優れた文化を身に付けているとして、自己主張をすれば、農村では、それがやがて不協和音と争いを生む人として見られてしまう可能性があるということです。
都会の新しい文化も農村の数百年又はそれ以上に及ぶ仏教文化も、文化が違うだけで上も下もないということを分かって頂けたらというお願いです。
自分が上だとして、自己が正しいとして、最初は主張しすぎない方が良いと思われます。
しかし、逆に、移住者の方も「利他、互譲、共栄、助け合い、支え合い」の心を示してくれるのなら、古い地域の人々は、その心をもって、予想以上に心を開いてくれると思う。
それは、めまぐるしく変化する世界と日本の中で、苦楽を越え、互いに尊重しながら、何世代も一緒に仲間としてやっていこう、ということを意味している。
今、古い地域の門は開いている。我々も新しい人々を受け入れたいのです。
最後に
但し、唐院はかつて「大和のお江戸」と言われた村であり、主力工業である貝ボタン製造で繁栄し、兼業農家や商店も多くあった。
唐院の人々は、唐院のことを特に田舎の村とは思っておらず、村人たちは無自覚であるが家から生活様式、食文化に至るまでかなり高度な日本文化を有している。
私は第二次ベビーブームの時に生まれたのであるが、受験戦争などと言われた時代の前後で、地域柄関西方面の大学が多かったと思うが、東大、早稲田、慶応、京大、阪大、神戸、広島、関関同立その他かなりの大学に多く進学した。
北大は私を含めて私の前後で三人いた。
県外に行きすぎて、若者が減ったのだ。
しかし、これも時代への適応であったと思う。