2021年7月5日公開
現代は、法要や法事をしたり、それらに参加したりすることが少なくなったと思う。
それらを主催することにも参加することにも、気力、労力、それに先立つものが要る。休日を返上してするのだから、面倒に感じる人もいる。
今の時代、家の行事の中心に法要や法事を置いている人は少なくなったのではなかろうか。
今後は、家族以外の親族との付き合いは少なくなり、やがていつか消えて行くのだろうか。
にぎわいと春の気配
この間、一月末のことであるが、祖母の三回忌の法事があった。父親が主催者で、多くの親族が寺の仏間に集まった。
私の家は寺の家系なので、集まった人々の中に寺族が多かったと思う。祖母からすればひ孫もたくさん来た。
ひ孫の一人に私の四才になる娘がいるが、前日から「あした、ままちゃんすんねん。みんなですんねん。みんなでおりょうりたべにいくねん。たのしいねん。」と言い、何度も法事に着て行く服に着替えて喜んでいた。
法要は、近くの法縁の寺のご住職に来て頂いた。導師のお経の途中、仏壇の須弥壇の上の仏さんと、その下の祖母と先祖の位牌、それに蓮の常花は、小さな灯籠の淡い橙色の光に当って、美しく荘厳な金色に照らし出されていた。
手前の経机のろうそくの火は、子供の頃に満たされていた仏さまに手を合わせることへの幼い心の喜びを思い出させた。
和室の大きい銅製の花添えに、白百合、千両、ねこやなぎが鮮やかに活けられていた。別の小さな黒い花瓶には、庭に咲いていた白い水仙と南天の赤い実をつけた枝が活けられていた。
沈香の煙の甘い香りは、ほのかに二間に行き渡った。集まった和室から見える庭の梅の古木には、白い花がちらほら咲いていた。小さいひ孫たちは笑って走り回っていた。
その日は、祖母のために、親族のにぎわいと春の気配に満ちていた。
色々な人と関わり成長してく子どもたち
結局の所、私もこのようにして大きくなったのだ。子供の頃、祖父母の世代、父母の世代が法事で集まり、多くの大人に可愛がって貰ったのだ。
そして、従兄妹たちと一緒に遊び、笑い、成人して今に至っているのだ。
父母や叔父たちも今もまだ社会にいて、この同じ時代に仕事をして生きているのだ。
どこの家も、このような親族の集まりが、いつか助け助けられる関係の、この時代の中で生きて行く事の安心感の、礎になってきたのだ。
そして、このような仏縁で結ばれた人々の場の繰り返しが、やがて幼い子供たちに、豊かな未来を約束するのだという事を、私は知っている。
幼い子供たちが次の世代を、共に喜び、共に哀しみ、共に生きていくことの礎に、親族があるのだということを、私は知っている。