2021年7月8日公開
さて、皆さん、昨今この日本に於いても、非常に災害が多くなったと思います。
地震、台風、ゲリラ豪雨、川の氾濫、火山の噴火等、沢山起こりました。
海外でも、地震やハリケーン、干ばつなど、数え上げればきりがありません。
そのニュース、海外の災害のニュースは、日本国内でも報道されています。
しかし、日本と違って海外の国が災害に見舞われた時、パニックや略奪、暴力が起こって、大混乱に陥っている映像も見かけます。
孤立した地域に軍隊のヘリコプターが来て、救援物資を落下させている時、その下で人々がその救援物資を我先にと奪い合う姿もありました。
日本のように、人々が順番に並んで、何時間も給水車を待っているというような姿は、そこには映ってはいませんでした。
激しい混乱と無秩序、そのような状況は災害に直面して、いくつかの外国では表われるのだと思います。
自主的に助け合う土地柄
私は今、奈良の唐院という旧村で、ほんの少しですが寺の仕事もしています。
現在の奈良盆地は、先祖たちや現在の行政の職員たちの手によって、かなり治水がなされています。
県外で災害が起きても、奈良盆地はそれ程大きな被害を受けることなく近年はきました。
そういう意味で、今唐院に暮らす人々も、災害をテレビで見て、口々に「奈良はええとこやなあ。」と言っています。
もし万が一、この唐院で、大きな地震や災害に見舞われても、パニックが起こったり、略奪や暴力、放火などがなされたりはまずないと思います。
無秩序状態にはまずならないと思います。絶対などない世の中の中で、唐院ではまず無秩序は生じないと思います。
仮に災害が生じても、まず人々は自主的に目の前の危険を取り除き、傷ついた人を助け、地域中助けを求めている人がいないか探し求め、自分たちでできる事を始めると思います。
ほぼ全員が、壊れかけた旧知の共同体を復元するために、同時に作業を始めると思います。
人手が必要な所に行き、それを手伝い、人手が足りていたら、他に人手が必要な所を探して回り、それでも人手が足りていたら、まだ誰も手を付けていない作業で、自分に出来る目の前のことに手を付けると思います。
大人は大人のできる作業をし、子供は子供のできる作業をし、老人は老人のできる作業をすると思います。
これは、交通や通信が途絶えて、人々が法律やマニュアルを知らなくても、ということは法律が停止したような状況になっても、別の秩序、精神性が表れてくるからだと思います。
それは、共同体としての、利他、互譲、共栄、助け合い、支え合いの精神です。
もちろん、自衛隊や行政に助けて頂かないとならないような、激甚災害になったら話は別ですが。
利他的に最適化された状態
唐院は三十年位前迄、村全体で一つのコンビニのような状態でした。
村内には互いに競争しない形で、数件ずつ米屋、八百屋、魚屋、肉屋、酒屋、布団屋、菓子屋、薬屋、建具屋、大工さんがあり、村内では、全体として、村内の全ての需要が埋められていました。
過不足なく全員の需要が満たされていたと思います。
これは強力なリーダーが出て、計画を立て、それを断固実行してそのようになったのではありません。
放っておいたら自然とそうなり、村内の生活必需品の需要を殆んどを過不足なく満たせるようになったのです。
人々の心の中には、人の役に立ちたいという利他の心が自然に備わっています。一見口の悪い人でも同じです。
だから、既に米屋が二軒あるのに、「自分ならもっと安い米を供給できるから、自分も米屋をやろう。」と考える人がいなかったという事です。
既に二軒の米屋があって、自分が三軒目を出すことは、既に出来ている二軒の稼ぎを幾分か奪うことがあることを知っていたから、自分が三軒目を出すことはせず、まだ誰も出していない品目を扱う店を出すことにし、そのようにして、他人と競争せずに、その他の需要を満たそうと、それぞれが行動した結果が、旧村に米屋、八百屋、肉屋、魚屋、酒屋、布団屋、菓子屋、薬屋等が数軒ずつという状態でした。
他人と競争せず、利他的に振る舞った結果が、一村で一村の全ての需要を満たせるという最適化された状態でした。
根底にこの様な考え方があるから、少々の災害に見舞われたとしても、強力なリーダーが上から指示することは本来必要ではない。
皆が皆、皆のために動き、各々未だなされていない作業を探し出して行い、全体として自然と必要な作業が全て埋められるのであろうと思う。
譲り合いと助け合いの心
これは予め、強固な規律正しさがあって、皆がそれを知っていて、混乱の中に於いても、人々がその規律を守っているという状態ではないと思う。
外国人の目には、混乱の中で日本人が強固な規律を守っているように映るのかも知れないが、特に唐院にはそれに関する明らかな規律ないし、なかった。
逆に混乱の中に於いても、利他的に動き、困った人を助けるという心性が個々の人々の中にあるのであり、地域全体としては、千手観音の手が、困った人々を助けるために、困った人々の全てのニーズを満たそうとするように、自然と共同体のニーズは全て埋められるようになると思う。
利他、互譲、共栄、助け合い、支え合いの世界であるから、自分だけが良ければ良いとか、自分だけが助かれば良いとして、我先に物資を取れるだけ取ろう、という意識は働かない。物資を前にして、互譲、互いに譲り合って並ぶだけである。
それは、この共同体では、少々の災害のような場合に於いてさえ、誰かが助けてくれるだろうという安心感が、根底では働くからであろうと思う。
自分も誰かを助けようとするから、誰かも自分を助けてくれるだろうと、信じられるからである。
唐院は、おそらく混乱期には、助け合いさえすれば、皆が皆生きて行ける世界であるから、自分だけ先に沢山取って、最後の方の人の分が足りなくても知らないという発想は起きにくいのである。
もし、その様なことをすると、「あいつは自分の事だけ考えて!」と叱られるだけである。
自主的な連帯
この世界は仕事や作業を競争してまで、皆と同じことをする世界ではない。
それよりも他人の役に立つために、誰もまだ手を付けていない課題をそれぞれが埋めて行く世界なのである。
それは、中央で計画して、強制的に末端に押し付ける世界ではない。
そのようなことをせずとも、放っておけば、勝手に人々は、共同体として最適な状況を作る世界なのである。
これは本当か、と問われれば、私は本当だと答える。
このことの簡単な小さな例は、今でも唐院の同級会の公民館の飲み会で散見される。
宴たけなわで飲み会が終りに差し掛かった時、酔っ払っている間でさえ、誰かがビールやジュースの缶や瓶を集めだし、これを見た者は紙コップや紙の皿、割りばしなどの燃えるゴミを集めだし、他の者もそれを手伝いだし、手が足りていれば、残っている座布団を運んだり、雑巾で机を拭いたり、折り畳みの机を運び出したり、汚れた畳を拭いたりする。
一見無計画に片付け始めたように見えても、酔っ払って笑って喋りながらでも、誰に指示されなくても、最も早く場を片付けるということを皆で無意識のうちにするのである。
必要な作業は必要な順番で、各々が勝手に埋めるのである。
まるで、予め、最も効率の良い手順が計画され、全員に周知していたかのように。
勿論、酔いつぶれて寝ている者を、不公平だからという理由で、たたき起こして、片付けに参加させるようなことは誰も思いつかない。
そんなことをしても、片づけが遅くなるだけだ。だから、多少の災害であれば、唐院では、この作業の拡大版、災害版が、起こるだけであろうと思う。
日本人の持つ個性
今、日本人の中に、常に日本は全てで世界から遅れていると思っている人々がいる。いつの時代も一定割合いたと思う。
そして、昨今子供や若者の教育で個性、個性、個性を伸ばせ、とばかり言っている。
しかし、そんなことばかり言っていたら、無意識で合理的な集団行動が取れるという世界の中に見たらおそらく比類がないと思われる日本人「独自」の個性を、失ってしまうのではないか。私は少し不安に思っている。
そして、個性的で自己主張が激しくバラバラになった人々を、何かの必要に応じて束ねようとしたら、上から強権的に押えたり、法律でしばったりするしかなくなるのではないか。
その時、その点において、日本は、世界の中で普通の国になったのであり、個性的な国ではなくなっているのではないかと思う。
追記 令和3年7月7日
個性を否定してるのではありません。個性は重要です。皆に個性があります。
それと同時に全体の中で調和した個性も重要なのだと思います。