第十話 後半

2021年7月5日公開

燕

毎年、自宅の玄関先に燕がやってくる。
黒い羽が光沢を持ち、真っ赤な喉元をした美しい鳥だ。
いつかの年の、春先に、田の土と草を使って作った巣が、代々受け継がれている。
燕は四月にやって来て、卵を生み、育てる。
燕は五つの卵を生む。ひなは急激に大きくなり、巣の上に黄色いくちばしが五つ並ぶ。そして、ひなが5月末頃に飛び立った後も、一日二日は家の近くにいて、何度か巣に戻ってくる。
それが、家の者にはお礼を言いに戻るように写る。
あまり知られていないが燕は子孫を残すことに貪欲で、その年に一度目のひなが育った後二回目の卵を生む。
しかし、二回目は、奈良盆地の七月の暑さの為、ひなはなかなか育たない。
飛び立てるのは五羽中一羽か二羽だけである。
奈良の東の果ての山寺では、七月八月も涼しいため、同じ燕が年に三回も子育てをするそうだ。

豊かな心をもつ

燕が来る家は栄えると言われる。
しかし、燕が来ると家が栄えるというのは、燕自身のもたらすご利益ではなく、燕を受け入れる家の人々の、もともとの考え方によると思う。

燕が来ると玄関先が汚れる。ひながふんを落とすため、巣の下に新聞紙をひいて毎日替えなければならない。
新聞紙からそれたふんは、ブラシに水をつけ、こすらなければならない。
また燕が巣を修理した時に落ちる泥、ひなの抜けた羽毛、食べ落とした虫の死骸を掃除するのも大変である。

この掃除を厭えば、燕を追い出したり、巣を取ってしまうことになる。夜は燕が眠るために玄関の電気を付けない。
掃除を嫌わず、燕の子育てを優先する心がなければ、結局燕はその家にいることができない。
燕は自然のものであるから、自然と共生する心があること、細かな掃除を嫌わないこと、燕は多産であるから、その子孫繁栄を喜ぶこと、それらが燕を受け入れるには必要であり、もともとその様な心を持っている家だからこそ、栄えゆくのだと思う。

ある時期を生きる燕たち

それに、燕から教えられるところも多い。
燕の親は日の出とともに、子供のために餌となる虫を取りに出かけ、子供が鳴いて待つ巣にえさを何十回、何百回と運び、それが雄雌共に日暮まで続く。
一体あのような小さな体のどこにその様な体力があるのかと感心する。
夜は親の一匹が巣のふちで子供と供に眠り、もう一匹は、玄関先の窓の枠の上で眠る。
窓枠に眠った一匹は、暗がりの中で頭を尾の方に折り曲げて眠っていて、私がすぐそばを通っても一向に気づかない。
家の玄関先で安心して深い眠りに落ちているのか、昼間の疲れによって気を失うように眠っているのか、私には分からない。
だが、子供を育てるというのはそういう事なのだ。
その時に持っている全ての力を子供のために使うということなのだ。
燕は自分のために使わなかった時間について、一塵の未練も後悔もないのだ。
ある時期を生きるとはそういう事なのだ。その様に出来る者だけが、子孫繁栄の幸せに恵まれるのだ。
そして、その様にしてもなお、代を継いでいく事はたやすいことではないのだ。

協力して危機に応じる

その年の五月、燕のひなが七匹生まれた。
大きくなったひなは巣からあふれんばかりになり、親鳥が虫を運んでくるのを待てずに鳴き、もう巣立ちは近い様に思われた。
ある朝、大きな黒い影が窓の外に現れ、けたたましい鳴き声が聞こえた。カラスが巣を襲ったのだ。
しばらくして私が外に出た時は、ひなの姿は見えなかった。
遠くの民家の屋根の上をカラスが飛んでいて、その周りを小さな燕の親の黒い点が旋回し、カラスを追っているように見えた。
カラスの周囲を舞っている燕は四、五匹おり、いつもは隣近所の燕でけんかをしている様に見えても、いざという時には、仲間で協力し合って、危機に応じることができるのだ。
結局、その日の朝、五匹のひながいなくなり、巣の三分の一は砕け、二匹が残った。
親燕はその夜も、巣のふちと窓枠で眠っていた。
良いも悪いもない。カラスも生きていくために必死なのだ。
だからカラスも自らの生命を継ぐために、燕の子を襲ったのだ。

 

それでも、燕よ、生きていけ。
またたくさんの子供を育てて生きていけ。何代も何代も私の家の玄関先で生きていけ。
燕は生きるとは、幾多の困難をも超えて、代を継いで行くことだと教えているのだ。