第九話 後半 犬のくろのこと

2021年7月5日公開

犬のくろのこと

生まれ変わりについて聞いたことがある人はいると思う。
しかし、実際に生まれ変わりを見たことがある人を身近に聞いたことがない。

くろとの出会い

寺には黒い犬がいた。子犬の時に親戚からもらってきて、そこから十五年以上いてくれた。
雑種であったが、人なつこい大きな目をしていて、若い頃はやわらかい黒い毛に覆われて、黒い背中の光沢は、白い光の輪のように見えた。
やがてそんなくろも、十五年を過ぎたあたりから足腰が弱くなり、人間でいう所の認知症だと思うが、視点が定まらず、徘徊するようになった。
母親は、もう十分に繋がれてきたから、自由にしてあげよ、と言い、それからは寺の裏庭で、弱々しくあったが自由に歩き回って晩年の日々を送った。
くろは、時々寺の小門から出て行くようになった。
そして、なかなか帰ってこれなくなり、何度も探しに行くようになった。

ある年の早春、桃の花も終り、野が春の草々の香りに包まれ出した頃、くろはいなくなった。
あのような足腰では遠くへは行けまい。
しかし、家々、道、田畑、神社の森のどこを探しても見つからなかった。
くろは、そのまま何処かに姿を消してしまったのだ。

季節外れの幼虫

それは、それから半年以上経ったその年の秋の終り頃の小春日の暖かい午後のことであった。
私は庫裡の南の縁側でコーヒーを飲んでいた。
その時、私は突然に、私の近くの木の柱に、緑色の虫が留まっていることに気が付いた。
何か季節外れの蝶の幼虫のようであった。突然、私はその時確かに、これはいなくなったくろなのだということを直感した。
これはくろなのだ。くろがお礼を言いに、仮に小さな緑の虫に姿を変えて、戻って来てくれたのだ。
私はこの小さな生き物に、昔くろに感じたのと同じ親密さを感じた。
昔、頭をなでたり、散歩していた時と同じ親密さを感じた。我々はしばらく一緒にいた。
なつかしさが我々を包んでいた。

やがて一本の電話が鳴り、少し経って私が戻って来た時には、虫はもういなくなっていた。そんなに遠くへ動けるはずがない。
私は探した。柱、漆喰の壁、縁の上、鉢植えの植物の陰。しかし、虫はもういなかった。
半年前と同じように、くろは消えてしまったのだ。

その小さな生き物は、やがてくろが、初冬の白い光に包まれた秋の野の花々の上から、飛び立つのだということを、暗示していたかも知れなかった。